他人の言葉の中にこそ、己の姿がある。

こんにちは、さなです。

春はあっという間に通り過ぎ、
夏の到来でしょうか。
今日のまぁあっついこと。

ちょまて
ちょまてよ
まだ4月もやっと半ばに差し掛かったところじゃろ?
なんでエアコンガンガンにして車運転せにゃいかんのよ?

・・・明日はもっと暑くなるらしい。
もう少し、
春のうららかさを満喫したいのですが・・・

♢♦♢♦♢♢♦♢♦♢

そんなことを思いつつ、
今日は午後からふと思い立って
地元に近いとある神社に参拝に行って参りました。

そこで偶然知人に会いまして。
(知人と言っても友人に近い知人ですが)

何となくモヤモヤしている愚痴を聞いてもらいましたところ
えらい勢いで叱られました(笑)

なにそれ
そんなのらしくないよ
さなさんはもっと凛としてなきゃダメなのに何それ!

え~っと
らしくないですか?
いや私はこんなジトっとしたヤツなんすよ、えぇ。
そもそも私「らしい」とはどういう感じなのでしょうか?
・・・と聞く間もなく次々とたたみ掛けられ、

さらに次々と褒め称える言葉を浴びせられ

あなた・・・
それは私を賞賛し過ぎだし
買いかぶり過ぎだし
ほめ過ぎでしょ
私はあなたが言うほどのすごい人物でも何でもないわよ

と言いたいのをちょっと我慢して
そのまま叱咤の言葉を浴びていたわけです。
(叱咤の言葉=賞賛の言葉とも言うだろうか)

うーーん
なんだかなぁ・・・と思いながら帰路につき、
車の運転をしながらあれこれ考えたんですが

自分の事ってよく解りませんよね?
自分ってこうだと思っている自分が一番正しいと思ってるでしょ?
私もそうよ。
色んな人がキレイな言葉を並べてあれこれ褒めてくださるのを聞いては

「けっ。そんなこと思ってないくせに」となるんですよ。

簡単に人の言う事を信じない龍高星の性質とも言えますが、
「そんな簡単に私の事を解ったようなことを言うな」となるわけ。

何が解るんだよ?
私の心の奥底の何を知ってるんだよ?と。

で、
それが間違っていることに気づいた。
いや、気づくのが遅い。算命学を学んでいるのに何たる失態か。

これは「陰占」の姿であることに。
自分では気づかない。解らない。
人から見える姿。
「日干」という自分を取り巻く「陰占」とは、
己の環境の縮図だ、と言うこと。

環境とは自分を取り巻く「人間関係」だと言うことです。
自分(日干)が周りとどのように対峙していけばよいかが解るのが陰占。
そしてそのような人間関係の摩擦なくしては、
「自分」という姿は分からないものです。

自分のことをあーだのこーだのと言うことは
もはや「自己満足」の域を超えないもので
人と言うのは「様々な」他人との関係の中から
自分の存在を認識していくものだということに

はたと気づいた次第です(マジ今更)(;^_^Aスマン

ということはこれは
私のことが良く見えている他人様の声が全うであり正しく、
自分で「私ってこう」と決めつけていることは

自分が勝手に作り上げたある種の「虚像」なのかも知れない

という結論に達してしまったのよ(;^_^A
*相変わらず極端から極端に走る性質←虚像は言い過ぎよね

きっと今日のこの偶然の出会いは
自分一人の考えに固執していた箍を外すために
神様が用意してくれた学びだな・・・

と思うようにしました。

折しも本日は「丙午」日で
私にとっては天中殺日
学び深い日となりました。

自分以外の他人から見える己の姿は、
自分がどう思おうと
自分自身の本質の真髄を突いています。

言ってくれたその人が
特に信頼できる人ならば、
きっとその言葉は正しい。

それがたとえ
「それ私とは真逆の姿ですが?」といくら思おうと
あなたが持つオーラだったり
醸し出す雰囲気だったりするわけで、

疑わず、
その方が仰る通りの自分に近づく努力をしてみると良いよ。

あなたの宿命たる「陰占」がはっきりと枠組みを作って
存在感を増して来るに違いありません。

最高のあなたを引き出してくれるヒントは
隣にいる人の何気ない言葉の中にあるかも知れません。

「陰占」のあなたの姿を
大切にしてください。

 

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